備忘録

「失敗の本質」を繰り返すな

備忘録

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」とよく言われる。

太平洋戦争へと突き進んだ昭和初期を振り返るとき、私たちはつい「あのときは、悪い指導者がいたから」「軍部という特定の勢力が暴走したから」と説明したくなる。だが、戦後の政治学者・丸山眞男は、戦前の日本を「無責任の体系」と呼んだ。誰か一人の悪人や黒幕が国を破滅に導いたのではない。誰も全体に責任を負わないまま、引き返せないところまで物事が進んでいった、それが本質だった、というのである。

1984年に刊行された『失敗の本質』(戸部良一ほか著)は、太平洋戦争における日本軍の組織的敗因を分析した書として、今も広く読まれている。そこで指摘された問題の核心は、戦略の誤りでも兵器の差でもなく、組織の意思決定そのものの構造的欠陥だった。

この見方は、現代を考えるうえで重要な示唆を含んでいる。私たちが警戒すべきは「隠れた敵」ではなく、「ブレーキが効かなくなる構造」そのものではないか、ということだ。

この記事では、特定の人物や勢力を断罪するのではなく、戦前と現代に共通して見られる「機能不全の構造」を整理し、そのうえで一個人として、いま有権者に何ができるのかを考えてみたい。

戦前の失敗は「構造」だった

戦前の意思決定について、しばしば指摘される特徴がいくつかある。

一つ目は、不都合な事実が握りつぶされたことだ。開戦前、若手エリートを集めた「総力戦研究所」は、日米開戦のシミュレーションを行い、「日本必敗」という結論を出していた。冷徹な物資と国力の計算に基づくものだったが、「いまさら引き返せない」「勝つ方法はあるはずだ」という空気の前に、その分析は無視された。

二つ目は、正式な手続きを経ずに既成事実が積み上がったことだ。現場が行動を起こし、政府や議会が後からそれを追認する。気づいたときには、選択肢はもう残っていなかった。

三つ目は、誰も「やめる」という決断をできなかったことだ。ここまで犠牲を払った以上、引けない――そうやって損失を取り返そうとするうちに、損失はさらに膨らんでいった。

そして、これら三つを束ねていたのが、「空気の支配」だった。

評論家・山本七平は著書『「空気」の研究』の中で、日本社会における「空気」の強制力を鋭く分析した。論理やデータより、その場の「空気」が意思決定を支配する。「そういう流れだから」「みんなそう思っているから」という理由で重大な決定がなされ、誰も正面から異を唱えられなくなる。

空気は、責任の所在を消す。誰が決めたのかではなく、「そういう空気だったから」で全てが説明され、結果として誰も責任を負わない。丸山眞男の言う「無責任の体系」は、この空気によって完成する。

これらに共通するのは、特定のイデオロギーでも、隠れた工作でもない。チェックする力が働かなくなり、軌道修正ができなくなったという、組織と制度の問題である。

いま、同じ条件がそろいつつある

2026年2月の衆議院選挙で、自民党は単独で316議席を獲得した。結党以来初めて300議席を超え、総議席の3分の2をも上回る、歴史的な大勝だった。参議院で否決された法案も、衆議院で再可決できる――それだけの力を、一つの党が握ったことになる。

これは、民意が明確に示された結果である。その事実は重い。

だが同時に、ここで立ち止まって考えておきたいことがある。強い権力それ自体が悪いのではない。問題は、強い権力ほど、外からブレーキをかけにくくなるということだ。

野党が小さく、与党が圧倒的なとき、何が起きやすいか。審議は形式的になりやすい。数の力で押し通せるなら、反対意見を丁寧に吸収する必要も、立ち止まって検証する必要も、薄れていく。これは、どの政党が政権を握っていても等しく当てはまる、構造の話である。

そして、現代にも「空気」は存在する。

「外国人受け入れに懸念を示すのは差別だ」「多様性に反対するのか」――こうした空気の中では、制度の具体的な問題点を数字で指摘すること自体が困難になる。戦前、「非国民」という言葉が異論を封じたように、現代にも「レイシスト」などと異論を封じる空気はある。空気が支配するとき、データは無視され、手続きは形骸化し、誰も全体に責任を負わなくなる。

戦前、議会が力を失い、異論が通らなくなっていく中で、ブレーキは少しずつ壊れていった。「強い指導者に任せておけば大丈夫だ」という空気こそ、後から振り返れば最も警戒すべきものだった。

既成事実化の現代版――特定技能2号という事例

「正式な手続きを経ずに既成事実が積み上がる」。これは戦前だけの話ではない。

特定技能2号という在留資格をご存じだろうか。在留期間の上限なし、人数の上限なし、家族帯同可、永住権取得への道も開かれている――この制度は、国会での抜本的な法改正ではなく、閣議決定による対象分野の拡大という形で、静かに、しかし急速に広がってきた。

岸田政権が2023年6月、対象分野を2分野から11分野に閣議決定で拡大した。国会の法改正ではなく、閣議決定で。石破政権の13ヶ月間でその数は11倍に膨らんだ。そして2026年2月26日、参議院本会議で高市総理はこう答弁した。

「特定技能2号は高度専門職に相当し、日本が必要な人材のため、受け入れ人数の上限は設定していない」

その同じ答弁の中で、こう続けた。

「今後、外国人の受け入れに関する具体的な調査と将来推計等を行うこととしております」

「上限を設けない」と明言しながら、「これから調査と推計を行う」と言う。だが、将来推計に必要なデータは、出入国在留管理庁がすでに公開している。44ヶ月分の増加データを使えば、一般市民でも30分で推計できる。実際に試みた分析では、このペースが続いた場合、2028年には100万人に達するという結果が出た。詳細な分析と計算過程は次の記事に記した。

データはある。推計はできる。それでも「これから調査する」と言う。

総力戦研究所の「必敗シミュレーション」が空気の前に無視されたように、不都合なデータは直視されない。これは、戦前の構造と重なって見える。

そしてもう一つ。「一度進んだら引き返せない」という不可逆性も、戦前との共通点だ。定住し、家族を呼び、子どもが学校に通い、永住権を取得した人々に、後から「帰国してください」と言うことは、人道的にも法的にも不可能だ。引き返せなくなる前に検証すべきだった、という後悔は、戦前にもあった。

重要なのは、この問題を特定の人々への敵意に向けることではない。問うべきは、国民的な議論と国会での正式な審議を経ずに、なし崩し的に既成事実が作られていく決定プロセスそのものだ。

「できない」の説明を、鵜呑みにしない

近年、ある政策が掲げられたのに進まないとき、しばしば耳にする説明がある。「本当はやりたいのだが、内部の抵抗勢力に阻まれてできない」というものだ。

この種の説明には、注意が必要だと思う。

うまくいかない理由には、論理的に二通りがありうる。ひとつは「やる気はあるが、抵抗で阻まれている」。もうひとつは「そもそも本気でやる気がない、あるいは公約自体が実現困難だった」。前者の説明は、指導者本人の責任を、内部の誰かに移し替える働きを持つ。だが、どちらが本当なのかは、説明を聞くだけでは分からない。政策ごとに、事実で確かめるしかない。

同じことは、逆の立場からも言える。「あの政治家は最初から有権者を騙していたのだ」という断定もまた、相手の心の中――証明のしようがないもの――を根拠にしている。騙すつもりだったかどうかは、永遠に水掛け論にしかならない。

だからこそ、問うべきは「意図」ではなく「結果」なのだ。

「本気だったか」は証明できない。だが、「公約に掲げたことを、これだけの議席を持ちながら、いつまでに、どこまで実行したのか」は、記録で追える。減税はいつ実施されるのか。掲げた政策は、具体的にどこまで進んだのか。新しく作られる法律は、誰を対象とし、誰を対象から外しているのか。

これらは、相手の心を推測しなくても、事実として確かめられる。そして、事実として確かめられることだけが、言い逃れを許さない。

「法を作る側」は法の外にいないか

いま、政府は安全保障に関わる法整備を進めようとしている。その中には、外国による諜報活動を取り締まる法制度の検討も含まれる。

こうした制度を考えるとき、一つの問いが重要になる。その法律は、誰を対象とし、誰を対象から外すのか。

仮に、一般の国民や末端の情報取扱者は対象になり、権力の中枢に近い人々が対象から外れる、というような制度設計があったとすれば――それは実効性の面でも、公平性の面でも、根本的な疑問を残す。重要な情報にアクセスできる立場の人ほど、漏らせる情報の価値は大きいはずだからだ。

ルールを課す側が、自らをそのルールの外に置く。これは、まさに「無責任の体系」の典型的な形である。

現時点では、こうした法制度はまだ検討・策定の段階にある。だからこそ、法案が形になる前に、「対象範囲はどうなっているのか」を有権者が問い続けることには意味がある。条文が確定してからでは、軌道修正は難しくなる。

有権者にできること

戦前の失敗から、私たちが学べることは何だろうか。

それは、「良い指導者を選べ」でも「悪い勢力を見つけて叩け」でもない、と思う。誰かを善人と悪人に振り分け、敵を名指しすることに熱中している間、本当の問題――決定の不透明さ、チェックなき権力、責任の所在の曖昧さ――は、手つかずのまま残ってしまう。

学ぶべきは、もっと地味で、もっと根本的なことだ。

支持していようと、していまいと、掲げられた約束の進捗を事実で検証し、手続きの透明性を要求し、権力が自らを例外扱いしていないかを監視し続けること。

人物への評価は、人によって割れる。だが、約束が守られたかどうか、手続きが踏まれたかどうかは、事実で示すことができる。戦前の日本に決定的に欠けていたのは、この「結果で責任を問う」という習慣ではなかったか。

『失敗の本質』が描いた組織の病理――空気に支配され、データを無視し、誰も全体に責任を負わない構造――は、特定の時代や組織だけの問題ではない。条件がそろえば、いつでも、どこでも再現しうる。

そのブレーキは、最終的には、私たち一人ひとりの手の中にある。熱狂でも、諦めでも、敵探しでもなく、事実にもとづいて問い続けること――それだけが、同じ轍を踏まないための、確かな方法なのだと思う。

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